サンパウロ市の日本語学校で神尾先生が映写機を持ってきて見せてくれた8ミリの映画。確かぼやけた陸上競技のシーンでした。それが間違いなく私の東京オリンピックの思い出で有ります。当時ブラジルでは日本は全く別の世界でした。インターネットやビデオが無い時代で日本の情報も少なかったと思います。子供だった私達はオリンピック自体の大きさと素晴らしさも全然知りませんでした。サッカー以外のスポーツも見た事無かったかもしれません。当時私は小学一年生でした。
日本の漫画を読むようになって、少しずつ日本の事が分かる様になり、大人に成ってから1964年の東京オリンピックはものすごいイベントであったと分かりました。第二次世界大戦で破壊された日本が立ち上がったと世界に知らせる目的の大イベントでした。あのころ新幹線も日本の絵本などで見ましたが、実際比較するものも無く、デザインがきれいだったとしか思い出せません。ブラジルの汽車は1867年、つまり日本よりも先に作られました、と言ってもその後線路数は増えましたが、技術的な進歩も無く、高速列車なども無く、新幹線とは遠い親戚のような感じです。
東京オリンピックの四年前、1960年にプロレスの力道山がブラジルへ来て地元のプロレスラーたちと戦って勝利したと、お父さんから後で聞かせてもらいました。その時、ブラジルに住んでいた青年アントニオ猪木を日本へ連れて行ったとの事。私の父はサンパウロ市の中央市場でスイカの卸売りをしていました。猪木さんは同じ市場で荷物をトラックから降ろすバイトをしていたと父は言いました。確かに、猪木さんみたいに身体の大きな青年がいたら、何所でも目立っていたでしょうね。
でも、子供にとって一番大きなインパクトだったのは日本のスーパーヒーロー、ナショナル・キッドのテレビ放送でした。ブラジルの音楽番組の後で流された第1部「インカ族の来襲」は、今でも思い出します。宣伝も予告も無く突然現れたスーパーヒーロー。ブラジルとは関係無いと分かっていながらなぜ面白かったのだろう。1964年でした。当時のブラジルのテレビには日本人は出ていなかったので、めずらしいことで日本人がヒーローだとは考えらませんでした。
そうした思い出が沢山有ったので、昨年の十一月、滞在していた金沢から東京へ行って江戸東京博物館の「東京オリンピックと新幹線」の展示会を見に行きました。オリンピック当時の物が沢山並べられていましたが、自分が想像していた1964年の日本とは少し違うイメージが目を引きました。
五十年も経ってしまって今考えると、日系人として日本は戦争に負けたのだと言い聞かされ、日系人は少し馬鹿にされていたのかも知りません。そこで東京オリンピック、新幹線とナショナル・キッドが出たことにより、日系人として誇りを持てる物がそろって来たのかもしれません。それらの出来事が当時の日系人の子供や若者に勇気を与えてくれたのでしょう。遠いブラジルにいても日本の勝利を祝って応援していた日系人。その様なつながりが有ったのでした。
注・江戸東京博物館の小林克様と谷川真実子様、どうも有り難うございました。
佐藤フランシスコ紀行 ・ 新聞記者・2014年JICAの研修生として金沢大学でお世話に成りました。